明星産商の創業者・森宏が「ハンディペーパー(のちのポケットティッシュ)」を開発してから約20年が経った頃、業界は激しい価格競争の最中にあった。窮地に立たされた明星産商だったが、パイオニアとしての誇りと情熱を胸にさらなる革命を巻き起こした。それが「ポケットティッシュ生産の全自動化」だ。
前例のない機械が開発されるまでには一体どんなドラマがあったのか? 開発に関わったレジェンド3人が当時を振り返る。
専務取締役大西
技術部 技師井上
技術部 技師赤堀
創業期の明星産商
(1970年代を振り返って ― )
あの頃の社員数は、60〜70人くらいでしたね。
全員が仲間の顔も名前も知っていました。
そう、60〜70人が全員が「あの人は、どの部署で、どんな仕事をしている人か」を分かっていました。
私が初めて社屋を見たときは、自動ドアがあることに驚きました。当時ではめずらしかったんです。要するに、荷物を運んでいる社員がいちいち手で開け閉めをしなくて良いようになっていました。
冷暖房も完備されていましたよね。
そういった設備のある工場は少なかったので、森宏社長(当時)のこだわりを感じました。
私が印象に残っていることは、社屋に「紙折技術のメイセイ」と看板が掲げてあったことです。社員全員に「紙折りに関しては絶対に負けてはいけないぞ!」という自負がありました。
当時は紙折りの機械をつくっている会社がほとんどなく、明星が自社開発でつくりあげたものですからね。今や誰もが知っている大手企業が使っている機械にも、実は明星の折り技術が使われていますし。
そもそもポケットティッシュやボックスティッシュ自体ない時代に、あのポップアップ式を考え、それを生産できる機械を開発したことがすごいなと思います。
森宏社長の「こういうものをつくりたい」という一言から、試行錯誤が始まって、紙を折る機械が生まれたんですよね。
私が入社したときには、工場にその機械が20台くらい並んでいて、ガチャガチャガチャ……ともの凄い音を立てて動いていました。
カバーも何もない状態で機械が動いてましたね。私が一番最初にした仕事が、そのカバーづくりでした(笑)
当時は紙を折るだけの機械があって、袋に詰める内職があり、封をされていない状態のものが工場に戻ってきて、ふちを熱で閉じるシール工程を行い、そして、最終的に数をきっちり数えて段ボールに詰めて出荷するという工程でした。
ほとんどが手作業でしたね。
当初は、封をする際に一つ一つ手でアイロンを当てていたけど、もっと作業性が上がるように足で踏んでアイロンができる機械を自社で開発しました。それでも生産が間に合わなくなったので包装機を自動化することが必要となり、このときは他社の機械メーカーと一緒に開発をしました。
それぞれの工程を行う機械は「半自動機」と呼ばれ、同じ形の機械が業界全体へと広まっていきました。
ただ、1台につき5人ほどの工員が必要で、腱鞘炎になるなど体への負担も大きかったです。
でも、みんな明るく楽しく仕事ができたのは、“ミーティング”があったからですね(笑)
終業時間の17時になると食堂に社員みんなが集まり、冷蔵庫にあるビールを片手に“ミーティング”をしましたね(笑)
「今日は一日どうだった?」という話から始まって、最後は技術論になることも多かったです。二代目となった久保田社長もひょこっと現れて参戦していました。
役職や立場は関係なく、会社の方向性や技術的にこうしていきたいという話なんかも、ざっくばらんにしていました。
そのミーティングのなかで出たのが「ポケットティッシュの生産を全自動化したい」という話でした。技術部の社員からは「無理ですよ」「そんなこと、できるわけないでしょう」という反応で、なかなか挑戦には至っていませんでした。
全自動化への挑戦(激動の1990年代 ― )
明星の当時のポケットティッシュ生産状況は、工員5名がついて1分間に180個の製造能力でした。一方で、競合他社は全自動化に向けて前進しており、工員3名で1分間あたり150個の製造能力でした。どちらかといえば、われわれの方が遅れを取っていました。
明星が全自動化に取り組むことが遅れた理由は「品質へのこだわり」だったと思います。
明星の工員は素晴らしい技術とこだわりを持っており、高品質を生み出せる生産者でした。その方々がいるからミスはありませんでしたが、それを機械化するということは品質的に問題のある製品が世に出るかもしれないということ……だから、みんな乗り気ではなかったんです。
そんななか、ポケットティッシュの需要が高まり、原材料調達が県内だけでは間に合わず、他県にある製紙工場を買い取ったものの、とんでもない負債額を持った工場だったことが後に判明して、明星はたちまち窮地に陥ってしまいました……。
周囲からも「明星は大丈夫か?」という目で見られるようになり、借り入れが難しくなったり、仕入れ先に逃げられたり……そこから「なんとかしなければいけない」という機運が高まっていきました。まさに生きるか死ぬかの境界線でした。
久保田社長が目指したのは、コストに関して競争力を持つということです。そこで全自動化の機械を開発し、工員1名あたり1分間に200個生産するという目標が明確になりました。
資金調達はできないから、すべて社内でつくるぞ、と……。
紙を折る・包装する・段ボールに詰める……それらの装置をすべてまとめて1人の人間で扱えるようにしなければいけません。
しかも、限られた工場のスペースのなかに機械を並べるのだから、このサイズの機械でなければいけない……そういうこともみんなで相談しましたね。
全員で打ち合わせをしながらプランを考えて、それぞれが分担設計を行う。そして、またみんなでディスカッションを重ねてトータルを決定していく……その繰り返しでした。
もっとも問題となったのは、人の目で確認するということができないため不良品が出荷されてしまうということです。
いまは金属探知機やカメラなど不良品の流出防止装置がありますが、当時はそういうものがないから、お客さんの手元にいってしまいます。そこが課題でした。
それまでは工員が一つ一つチェックしていましたからね。そのチェックがなくなってしまうことから、私自身も当初は全自動化に反対をしていました。
社内の調整役を任された私も、その点で一番苦労をしました。技術部や工員が「不良品が入ったらどうするんだ」と抵抗してくるのを、「突破しよう!」と鼓舞しなければいけませんでした。私も技術部出身なので技術部の気持ちも分かるし、社長の想いも分かります。説得するのに随分時間がかかりました。
最終的には、たとえ不良品が混ざってしまっても会社の信用を保てるレベルを決めて、了承を得るということで、やっと納得してもらえました。
全員で立ち向かう
私が苦労したのは速さです。当時使っていたシーケンサーは千分の二十秒という処理時間がかかっていました。それは電気の世界では遅すぎるんです。0.3秒間に1個のポケットティッシュが生産されていくなかで、たくさんの処理をしないといけません。未知の領域であったから開発するのに苦労しました。
当時その速度はどこにもなかったから明星で開発したんですよね。
資金をかければやり方はあったかと思いますが、当時はそれも厳しかったですから、自分でプリント基板をつくる装置をこしらえて、生基板だけを買ってアートワークを自分で行い、部品を買って、はんだ付けを行い……というようなやり方で開発しました。
コストを抑えて開発するには電気だけの知見では難しいので、やはり、機械に詳しい社員との意見交換が不可欠でしたね。
若い頃の苦労は買ってでもしろと言いますが、振り返ると本当に大変でしたね。機械の設計から組み立て、仕上げの塗装まで自分たちでやるしかない。
私はちょうどその頃、子どもが生まれたばかりだったから「父親として頑張らないといけない」という気持ちで取り組めたのかなと思います。
開発だけではないですからね。日中は当時稼働していた機械のメンテナンスなどもあったわけで……。
ただ会社の全員が、機械を開発しているわれわれに協力をしてくれたと思います。
私が今でもはっきり覚えているのは、工員の方が「今、全自動化の機械を開発しているんだから、少しのメンテナンスで呼び出してはいけない。自分たちでやろう」と協力してくれたんです。
また、夜の遅くまで作業をすることもありましたが、事務員さんが「今日は何が食べたい?」と聞いてくれて、食べ物を差し入れてくれました。
マラソンで沿道の応援があるから走り続けられるのと同じで、社員全員が開発を見守ってくれていたことが励みになりました。
私は、近所の喫茶店の人にも随分お世話になりました。明星が機械を開発していることは近所の方までご存じで、食事をごちそうになったりしました。だからこそ、「本当に実現するしかない!」と思えたんです。
革命は仲間と生み出す!
1号機が完成するまでには1年半かかりましたね。
ただ、その1号機は失敗したんです。他の機械の構造を参考にしてつくったんですが、結局うまく動作しませんでした。
まだ品質への不安から技術部が乗り気ではないとき、私を含む当時の営業サイドから「この機械を参考にして、一度つくってみてください」とお願いしたんですよね。
しかし、その失敗をきっかけに「やはり明星独自の機械で勝負しなければいけない」という想いが湧いてきました。
そこから1年ほどかかって2号機が完成し、さらにブラッシュアップを続けました。
スピード、品質……そして、消耗品の交換回数を減らすということも改良の一つでした。
ギアやチェーンはある程度使ったら交換しないといけませんが、生産現場においては交換する時間がもったいない。そこでタイミングベルトを使うなど工夫を取り入れて、10年以上部品交換をしなくて済むように改良しました。
また、通常であれば機械はオイルを注さないといけませんが、オイルが散って製品を汚してしまうので、極力オイルを注さなくても済むようにしました。
開発した機械が生産ラインに運ばれていくときは、息子を送り出すような気持ちでした。
半年くらいは毎日見に行き、毎日改良しました。直しているところを人に見られると恥ずかしいので、こそっとね(笑)
最終的に機械は30台ほどつくりましたが、失敗したものはなかったですし、徐々に加工精度が良くなっていったことにも喜びを感じました。
工場に30台の機械が並んでいる光景は壮観でしたね。全部自分たちでつくったわけですから。
私はほっとしたのと同時に、人の手でも難しい工程まで品質を保ちながら全自動化できたことについて、飛躍的という次元を超えているなと驚きを感じました。
改めて思うことは、ものづくりにおいて重要なのは「仲間との意思疎通である」ということです。
特に開発においては自分だけの視点で考えたり、人と壁をつくっていてはうまくいきません。仕事においては立場や上下は関係ないという明星の社風が、さまざまな困難を乗り越える原動力となってきたのではないかと思います。
これから入社する若い社員も、先輩や上司に指示されるばかりではなく、自分から積極的に表現をしてもらいたいですね。
そして、常に好奇心を大事にして、遊ぶものでも何でも自分でつくってみてほしいです。そこで発想が鍛えられますし、何よりも自分でものをつくる喜びや楽しみを経験できると思います。
われわれの仕事に大事なのは、“遊び心”。私は趣味や遊びのなかで開発した電気回路が仕事の中でも生きています。
また、電気や機械には関係ないですが、人への思いやりや感謝というものも欠かせません。一人一人の持っている能力は異なりますが、お互いを尊敬し合う関係をつくり、力を合わせていけば、より良い“ものづくり”が達成できると思います。そのことはこれから会社を背負っていく若い社員たちにもぜひ伝えていきたいです。
明星は“ものをつくる会社”ではありますが、ただ言われたものをつくるのではなく、独創性のあるものを生み出していると思います。もちろん失敗することもあるけれど、それを糧にして常に前を向いて進んできました。
ポケットティッシュからはじまり、現在は化粧品や医薬部外品、医薬品といった多岐にわたる製品を生産するようになり、今後はさまざまな技術が必要となってきます。
だからこそ、多彩な個性や強みを持った人に集まっていただき、今後もワンチームとして新しいものづくりを目指していきたいと思います。